研究者にとっての論文十ヶ条(北大名誉教授 角皆静男先生のwebより引用)

数年前、「論文を書かない研究者は、ネズミを捕らないネコと同じである」といった(最近のネコはネズミを捕らないなどと揶揄されたが)。その後も折に触れて同様なことをいってきた。それをここでまとめておきたい。


1.「書かれた論文は書いた人の研究者としての人格を表す」 

書かれた論文からその研究者の人となり(人為)がわかってしまう。また、批判の材料にも使われる(日本人はあまり他をほめないが悪口は言う)。恐ろしい。


2.「データのみ出して論文を書かない者は、テクニシャンである」

テクニシャンが重要でないといっているのではない。ただ、テクニシャンは研究者でないことを自覚し、研究者としての待遇を要求してはならない。逆に、研究者は研究者の責任を果たさねばならない。


3.「データも出さず、論文(原著論文)を書かない者は、評論家である」

これも評論家が不要といっているのではない。ただ、評論家として振る舞うのではなく、研究者として振る舞い、こういう人達に研究費が流れていきがちなのが問題である。


4.「研究者は論文を書くことによって成長する。また、成長の糧にしなければならない」

投稿し、審査(批判)を受けることで成長する。若い人は没にされる率が特に高い。それで、こっそり黙って投稿する者がいる。むしろ、欧米のように、原稿ができたら、広く配り、周辺の批評を受けたいものである。


5.「論文は研究者の飯のタネである」

就職、昇進、任期更新、賞、研究費など研究者としての資質が問われる際に第1に問題にされるのが、よい論文を多数という点である。良ければ伸び、悪ければこの社会から締め出される。


6.「論文は後世の研究に影響を与えなければならない」

上で、異分野の研究者(や行政関係者)がまず取り上げるのが、審査のある雑誌に第1著者として書いた論文の数である。雑誌の質やその後の被引用回数も取り上げられる。本当は質であり、どれだけ後世に影響を与えるかである。また、書いても消えてしまうかもしれないが、書いておかなければ影響を与えることはない。


7.「研究者は書いた論文に責任を問われる」

その当時のレベルでは不可避であったことならよいが、間違った論文を書いた責任を取らなくてはならない。作為的ではなく、未熟さ、不勉強で結果的に間違えた場合でも、信用を落とすことになる。


8.「忙しくて論文が書けないというのは、言い訳にはならず、能力がないといっているのと同じである」

本当に価値あることが確実に得られているのなら、論文(の祖型)は一晩で書ける。書けないのは、足りない点があるからであり、書く力も能力のうちである。また。研究のため、教育に時間を割けないこともない。


9.「博士論文以上の論文を書けない者は、その博士論文は指導教官のものといわれても仕方がない」

最近は、博士の研究を論文にする際、当然のようにその学生が第1著者となる。しかし、アイデアから始まって、いろいろな指導を受けての結果であり、その学生の真価、実力はその後でわかるということである。


10.「研究において最も重要なのはアイデアであり、それが試されるのが論文である」

実験、調査、観測が主要な分野では、体を動かすことが重視されがちである。アイデアを尊重し、スケールの大きな研究をしたい。これには、技術的なことも含めて協力体制をつくり、資金を手当することも必要となる。

 

国際誌エディターが教えるアクセプトされる論文の書き方(上出洋介著、丸善出版)に引用